バヌアツ
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バヌアツ3000年の歴史|ラピタ文化から1980年の独立まで

TAIKI

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現在のバヌアツには83の島があり、100を超える地域言語があります。

では、この国はどのようにして現在の姿になったのでしょうか。

バヌアツの歴史をさかのぼると、約3000年前、ラピタ(Lapita)文化をもつ人々が海を渡って現在のバヌアツへ到達した時代までたどることができます。

その後、島々では異なる言語や文化、社会が育っていきました。

1606年にはヨーロッパ人との記録上の接触があり、19世紀には商人や宣教師が島々へ入るようになります。

さらに、太平洋の島民がオーストラリアなどへ労働者として送られた「Blackbirding」の時代も経験しました。

1906年からは、イギリスとフランスが同じ地域を共同統治するという珍しい体制が始まります。

第二次世界大戦、独立運動、独立直前のSantoでの反乱を経て、1980年7月30日に「バヌアツ共和国」が誕生しました。

この記事では、約3000年前のラピタ文化から1980年の独立まで、バヌアツの歴史を大きな流れで紹介します。

バヌアツの人口・地理・言語など、国全体について知りたい方は「バヌアツとはどんな国?」の記事もあわせてご覧ください。

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バヌアツの歴史をざっくり年表で見る

最初に、大きな流れをつかんでおきましょう。

時代主な出来事
約3000年前ラピタ文化をもつ人々が現在のバヌアツへ到達
1606年Pedro Fernández de Quirós一行がエスピリトゥサント島へ到達
1768年フランス人探検家Bougainvilleが島々を訪れる
1774年James Cookが訪れ、「New Hebrides」と命名
1839年キリスト教宣教師がエロマンガ島などへ到来
1863〜1906年ごろBlackbirdingによる労働者の移送が広がる
1887年英仏合同の海軍委員会による統治が始まる
1906年イギリス・フランスによる共同統治「Condominium」が成立
1940年代エファテ島・エスピリトゥサント島が連合軍基地となる
1960〜70年代自治・独立を求める運動が拡大
1980年エスピリトゥサント島でSanto反乱が起きる
1980年7月30日バヌアツ共和国として独立

では、約3000年前から見ていきましょう。

約3000年前|ラピタ文化をもつ人々がバヌアツへ到達

現在確認されている考古学的な証拠から、バヌアツへの人類の定住は約3000年前までさかのぼります。

その初期の定住と深く関係しているのが「ラピタ(Lapita)文化」です。

ラピタは、特定の国や民族の名前ではありません。

特徴的な文様を施した土器などで知られる、古代オセアニアの考古学的な文化を指す言葉です。

エファテ島(Efate)南部にある「Teouma(テオウマ)」では、初期ラピタ文化の重要な墓地と居住跡が発見されています。

UNESCOに提出されたバヌアツの資料では、エファテ島周辺への初期定住は約3100年前までさかのぼり、Teoumaにはラピタ土器を使う人々が暮らしていたとされています。

考古学や古代DNAの研究でも、約3000年前から、バヌアツを含む南太平洋の島々へ人々が本格的に広がっていったことが示されています。

つまり、バヌアツの歴史はヨーロッパ人が来てから始まったわけではありません。

そのはるか前から、人々が海を渡り、島々で暮らし、社会をつくってきました。

人々の移動が続き、島ごとの文化と言語が育っていった

バヌアツへの人の移動は、最初のラピタ文化の人々だけで終わったわけではありません。

古代DNAの研究では、その後、約2500年前以降にも、ニューギニアやその周辺地域につながる人々がバヌアツへ移動してきたことが示されています。

長い時間の中で、人々はバヌアツ各地の島へ広がっていきました。

島は海によって隔てられていますが、島同士の交流も続き、それぞれの地域で独自の言語、儀礼、社会制度、物語などが発達していきます。

現在のバヌアツに100を超える地域言語があり、島やコミュニティごとに異なるKastomがある背景には、こうした長い人の移動と交流の歴史があります。

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1606年|ヨーロッパ人との記録上の接触

バヌアツ史の大きな転換点の一つが、ヨーロッパ人との接触です。

1606年、スペイン王室のために航海していた探検家Pedro Fernández de Quirós(ペドロ・フェルナンデス・デ・キロス)の一行が、現在のエスピリトゥサント島(Espiritu Santo)へ到達しました。

Quirósは、この島を当時ヨーロッパで存在すると考えられていた「未知の南方大陸」の一部だと思い、「Austrialia del Espíritu Santo」と名づけました。

現在の「Espiritu Santo」という島名にも、この時代の名残があります。

ただし、このときスペインによる本格的な植民地支配が始まったわけではありません。

ヨーロッパ人がバヌアツの島々へ継続的に入り、社会に大きな影響を与えるようになるのは、さらに後の時代です。

17世紀初頭|Chief Roi Mataの時代

ヨーロッパ人との接触が始まった17世紀初頭ごろ、中央バヌアツではRoi Mataという有力な首長についての伝承が語り継がれています。

現在、その歴史を伝える場所が世界遺産「Chief Roi Mata’s Domain」です。

エファテ島、レレパ島(Lelepa)、アルトク島(Artok)の3つの場所からなり、Roi Mataの居住地、死亡した場所、大規模な埋葬地が残されています。

2008年には、バヌアツで初めてUNESCO世界遺産に登録されました。

面白いのは、Roi Mataについて語り継がれてきた口承と、考古学的な遺跡が結びついていることです。

UNESCOも「口承伝統と考古学の収束」を、この世界遺産の重要な価値として評価しています。

さらに、Roi Mataに関係する場所では、現在まで「Tabu」による伝統的な制限が守られています。

1774年|James Cookが「New Hebrides」と名づける

その後もヨーロッパの探検家たちが島々を訪れます。

1768年にはフランス人探検家Louis-Antoine de Bougainvilleが訪れました。

そして1774年、イギリス人探検家James Cookが島々を航海し、「New Hebrides(ニュー・ヘブリディーズ)」と名づけました。

この名称は、1980年に独立するまで長く使われることになります。

バヌアツの歴史資料で「New Hebrides」という名前が頻繁に出てくるのは、このためです。

19世紀|商人と宣教師が島々へ入る

ヨーロッパ人との継続的な接触が本格化するのは、19世紀です。

商人たちは、香木として価値の高かったサンダルウッドなどを求めて島々へ入り、キリスト教宣教師も活動を始めました。

1839年には、London Missionary SocietyのJohn Williamsらがエロマンガ島(Erromango)へ到着しています。

ただし、ヨーロッパ人との接触は、平和な交流だけではありませんでした。

交易やキリスト教の広がり、土地利用の変化、さらに外部から持ち込まれた感染症などによって、島々の暮らしや社会は大きく変化していきます。

そして19世紀後半になると、さらに深刻な影響を与えたのが「Blackbirding」です。

太平洋の島々から多くの人々が労働者としてオーストラリアなどへ送られ、現在のバヌアツからも多くの人々が島を離れることになりました。

1863〜1906年ごろ|Blackbirdingの時代

Blackbirdingとは、19世紀後半を中心に、太平洋の島々から人々を労働者として集める過程で、だましや強制、誘拐なども行われた歴史を指す言葉です。

契約労働者として募集に応じた人々がいた一方で、本人の意思に反して連れ出された人々もいました。

中には、誘拐や欺きによって連れ出され、非常に強い強制のもとで働かされたケースもあります。

1863年以降、現在のバヌアツやソロモン諸島などから多くの人々がオーストラリアへ渡り、Queenslandのサトウキビ農園などで働きました。

Australian Museumによると、1863〜1906年に約6万人のメラネシア系島民がオーストラリアへ渡り、その約3分の2が現在のバヌアツ出身だったとされています。

そのため、この歴史を、「全員が自由意思で移住した」

あるいは、「全員が誘拐された」

という二択で説明することはできません。

募集の方法や本人の意思、労働環境は、時代や場所によって異なっていました。

Blackbirdingは、現在のバヌアツとオーストラリアの歴史的な関係を理解するうえでも重要な出来事です。

1906年|イギリスとフランスによる共同統治が始まる

19世紀後半になると、バヌアツではイギリスとフランスの影響力が強くなっていきました。

1887年には、両国による合同の海軍委員会が設置されます。

そして1906年、イギリスとフランスは、当時「ニューヘブリディーズ」と呼ばれていたバヌアツを共同で統治することに合意しました。

これは、かなり珍しい統治の仕組みでした。

イギリスだけが支配したわけでも、フランスだけが支配したわけでもありません。

同じ島々の中に、イギリス側とフランス側、それぞれの行政や法律の仕組みが存在していたのです。

さらに、バヌアツの人々の間には、地域ごとに受け継がれてきたKastomにもとづくルールもありました。

そのため、社会の仕組みは非常に複雑でした。

この英仏共同統治は、英語では「Condominium」と呼ばれています。

その複雑さから、「Pandemonium(大混乱)」ともじって呼ばれることもあったそうです。

現在のバヌアツで、英語とフランス語の両方が公用語になっている背景には、こうした植民地時代の歴史があります。

バヌアツの国語であり、現在の共通語として広く使われているBislamaについては、「Bislama(ビスラマ語)とは?バヌアツ旅行で使える基本フレーズ15選」で詳しく紹介しています。

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第二次世界大戦|EfateとEspiritu Santoが連合軍基地になる

第二次世界大戦中、特に1942年以降、エファテ島とエスピリトゥサント島には、米軍を中心とする連合軍の大規模な軍事拠点が置かれました。

なかでもエスピリトゥサント島は、南太平洋における重要な軍事拠点となります。

現在のルーガンビル周辺には飛行場や軍事施設などが建設され、島のインフラや景観も大きく変化しました。

そして現在も、エスピリトゥサント島には第二次世界大戦の痕跡が残っています。

代表的なのが、「SS President Coolidge」と「Million Dollar Point」です。

どちらも現在は有名なダイビングスポットですが、その背景には第二次世界大戦の歴史があります。

観光地として見るだけでは分からない、「なぜここに沈没船や大量の軍需物資が残っているのか」を知ると、エスピリトゥサント島の見え方も変わってきます。

1960〜70年代|独立を求める動きが強まる

第二次世界大戦後、バヌアツでは自治や独立を求める動きが強くなっていきました。

特に1960年代以降、イギリスとフランスによる共同統治から、自分たちで国を治めようとする動きが広がっていきます。

その中で、大きな争点の一つになったのが「土地」でした。

バヌアツの人々にとって土地は、単なる不動産ではなく、Kastomや家族、共同体と深く結びついた存在です。

独立運動を率いた代表的な人物が、Walter Lini(ウォルター・リニ)です。

Liniらを中心に独立への動きが進み、1979〜1980年には、新しい国の憲法や法律も整えられていきました。

そして1980年、バヌアツは独立へ向かいます。

ただし、その直前にはエスピリトゥサント島で大きな反乱が起きました。

1980年|独立直前に起きたSanto反乱

独立直前の1980年、エスピリトゥサント島では大きな政治的混乱が起きました。

Jimmy Stevens(ジミー・スティーブンス)が率いる「Nagriamel」という運動が、新しくできる中央政府に反発したのです。

そして、エスピリトゥサント島を中心に「Vemerana」と呼ばれる別の政府をつくろうとしました。

これが「Santo反乱」と呼ばれる出来事です。

反乱は、1980年7月30日のバヌアツ独立後も続きました。

独立後のバヌアツ政府はパプアニューギニアに支援を求め、8月にはパプアニューギニア軍がエスピリトゥサント島へ派遣されます。

8月31日には反乱側の主要拠点が制圧され、Jimmy Stevensも逮捕されました。

つまり、バヌアツの独立は、植民地支配が終わって新しい国が静かに誕生した、という単純な出来事ではありませんでした。

「83の島々を、一つの国としてまとめられるのか」という問題も抱えながらの船出だったのです。

1980年7月30日|バヌアツ共和国が独立

そして1980年7月30日、イギリスとフランスによる共同統治が終わり、バヌアツ共和国が独立しました。

植民地時代に使われていた「ニューヘブリディーズ」という名称も、このとき終わります。

新しい国は「バヌアツ」と名乗り、自分たちの国づくりを始めました。

独立後の憲法では、民族や言語、文化の多様性、そして伝統的なメラネシアの価値観も大切なものとして位置づけられています。

つまり、独立は単に国旗や国名が変わった出来事ではありません。

「誰が土地を持つのか」

「どんな文化や価値観をもとに国をつくるのか」

という問題とも深くつながっていました。

現在のバヌアツを理解するうえで、1980年7月30日の独立は大きな転換点です。

まとめ|3000年の歴史を知ると、現在のバヌアツが見えてくる

バヌアツの歴史は、約3000年前のラピタ文化の時代までさかのぼります。

そこから長い時間をかけて人々の移動や交流が続き、島ごとに異なる社会や言語、文化が育っていきました。

1606年にはヨーロッパ人との記録上の接触があり、19世紀には商人や宣教師が島々へ入り、Blackbirdingによって多くの人々が海外へ渡る時代も経験します。

1906年からはイギリスとフランスによる共同統治が始まり、第二次世界大戦ではエファテ島とエスピリトゥサント島が連合軍の重要な拠点となりました。

その後、自治や独立を求める動きが強まり、独立直前にはエスピリトゥサント島でSanto反乱も起こります。

そして1980年7月30日、バヌアツ共和国が独立しました。

こうして見ていくと、現在のバヌアツに英語とフランス語が残っている理由や、Kastomや土地が大切にされている背景も、歴史とつながっていることが分かります。

バヌアツは、ただ「南太平洋に浮かぶ美しい島国」ではありません。

3000年以上にわたる人々の移動、島ごとの文化、外の世界との接触、植民地支配、そして独立の歴史が重なって、現在のバヌアツがつくられています。

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